湖の真ん中 竹生島


竹生島には、日本三大弁才天を本尊とする宝厳寺、弁才天に加え龍神など四柱の神を祀る都久夫須麻(竹生島)神社がある。竹生島への信仰は、平安期から中世にかけて盛んで、名だたる戦国大名も島に対し手厚い保護をしていたという。その歴史的背景や琵琶湖に浮かぶ島という神秘性からか、滋賀県のパワースポットとしても注目を浴びている。


 竹生島の宝厳寺には、浅井長政の父・久政が蓮華会の頭役として納めた弁才天像が安置されている。浅井三姉妹も、参拝に訪れたことだろう。蓮華会とは、家で祀った弁才天を島に奉納する行事で、現在も受け継がれている。今年は8月15日に行われた。
 ところで、能の謡曲『竹生島』に次のような一節がある。
「緑樹影沈んで 魚木に登る気色あり 月海上に浮かんでは 兎も波を奔(はし)るか 面白の島の景色や」(「奔る」は勢いよく動き回ること)
 島の木々が湖面に影をつくるようす、またその影を縫って泳ぐ魚達が木を登っているようだ、そしてその美しい景色に月に住む兎も、波間を駆け出していくだろう、それほど竹生島の景色は趣がある、となるのだろうか……。神秘的で美しい情景である。


 

竹生島と平経正

 平家の台頭から没落までを書いた「平家物語」(巻7)に、竹生島を舞台にした話がある。平経正(つねまさ)が、木曽義仲討伐に赴く道中に竹生島を訪れる「竹生島詣」だ。経正は平清盛の甥で、平家一門のなかでも詩歌管弦に優れ、琵琶の名手として知られた人物だ。
——木曽義仲討伐のために、平家の兵たちは北陸を目指していた。隊の将軍である維盛、通盛は先に進んでいたが、副将軍であった経正、忠教らはまだ近江にとどまっていた。経正は湖岸から見える島を見て、家臣に「あれは何という島か」と尋ねたところ、「あれが名高い竹生島です」と教えられ、小船で竹生島参詣することにした。
 竹生島に上陸した経正は弁才天を参拝したのち、住み込みの僧に請われて、琵琶を弾いた。経正が琵琶の秘曲を奏でると、あまりに素晴らしい音色にだろうか、経正の袖元に白龍が現れた——。
「当時、京の都ではここに参詣すれば願いが叶うと、竹生島の弁才天信仰は有名で、経正は戦勝祈願のため竹生島に渡ります。一方で、詩歌管弦に長じ、とりわけ琵琶の名手であった経正の噂は竹生島にも届いていました。僧たちは、経正の演奏をぜひ聴いてみたいと、『仙人の琵琶』と伝わる島の宝物でもある琵琶を手渡して演奏してもらったのです」。
 竹生島の歴史文化に詳しい高月観音の里歴史民俗資料館の北村大輔さん(47)が教えてくださった。
 経正が弾いた琵琶は、中世の火災で焼失してしまったそうだが、バチは今も竹生島に遺されている。
——竹生島明神の霊験をあらたかにした経正は、義仲討伐の勝利を確信し、歌を詠む。「ちはやふる 神にいのりのかなへばや しるくも色の あらはれにける」(神に祈った願いが叶えられたのか はっきりとしるしが現れたことだ)。一行は竹生島を後にし戦地へと向かったのだった——。
 「経正は、義仲を討つための戦闘に向かっていて、しかも隊列に遅れているわけだから、本来なら竹生島に立ち寄っている場合ではなかった。けれど当時の名高い観光名所をどうしても見たいという感覚だったのでしょう。経正をはじめ平家の人々は、最後まで貴族的な、雅な感覚というのが抜けなかったのでしょうね」と北村さんは推測する。
 義仲との戦いはどうだったのか。富山県と石川県の境の倶利伽羅峠で平家は大敗。経正は、その後の一ノ谷の戦いで命を落とした。
 ちなみに、平経正が琵琶を奏した場所は、現在の都久夫須麻神社拝殿だと伝えられている。神仏をも感動させる音楽を奏でなければならないが、辰年の今年は、いざ、竹生島へ……。
参考: DADAジャーナル

 

大洞弁財天と大黒天

 彦根城の北東、表鬼門の方角約1,5キロ。佐和山から連なる大洞山(211メートル)の中腹に、彦根日光と呼ばれた大洞弁財天(真言宗醍醐派長寿院)がある。かつては山裾まで内湖が迫り、城主は船で参詣したといわれている。 大洞弁財天堂(県の重要文化財指定)の創建は、元禄8年(1695)、元禄文化が華開いた頃で、当時の彦根藩主は4代目井伊直興の時代であった。
 直興は、日光東照宮修造の惣奉行を務め、槻御殿(玄宮楽々園)造営や松原港、長曽根港も改修した当時の建設事業第一人者である。その直興自らが院主となり、彦根城の鬼門除けと領内の安泰を願うと共に、近江代々の古城主の霊を弔うために建立したのが大洞弁財天である。
 弁財天堂横の阿弥陀堂には、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来の三尊が祭られ、彦根藩領内の古城主237人の法名・俗名の名札と、大坂の陣で討ち死にした家臣の法名・俗名の名札が奉納されている。
 また、直興は「領民全てが弁財天様のご加護があるように」願い、藩主一族・家臣・町村の領民すべてから銭1文の寄進を募った。寄進者25万9526人、銭270貫余りが寄せられ、寄進したすべての人々の名を記録した大洞弁財天祠堂金寄進帳(全68冊・重要文化財)が彦根藩井伊家文書として伝わっている。直興は熱心に仏教を信仰しており、領民全てが寄進し「結縁」するとこで安穏を願っていたという(「結縁」とは、将来成仏するために御仏と縁を結ぶこと)。
 弁財天堂は権現造りで漆塗りや極彩色の名残を留めた素晴らしい内外彫刻が施され、本尊の弁財天は彩色も美しい八臂座像、両脇に一五童子、四天王を従えた凛々しいお姿である。


 今回のツアーでは、普段は観ることができない秘仏の大黒天を見学する。
 直興が、内湖にかかる百間橋改築の廃材で造らせたという1万躰の大黒天と甲冑大黒天である。百間橋は、石田三成が島左近に命じて架けさせた幅三間(約5・4m)、全長三百間(約540m)に及ぶ橋で、古絵図では松原内湖にクランク状に描かれている。 1万躰の大黒天は弁財天堂より4年遅れ元禄12年(1699)に経蔵建立と同時に祭られ、楼門上には金色の臼に座した等身大の甲冑大黒天像が安置されていた。 楼門上に4千躰、経蔵に3千躰と伝わっている。現在は全て経蔵に納められている。
甲冑大黒天は、インドの高僧で中国に仏像と教典を伝えた迦葉摩騰(かしょうまとう)、竺法欄(じくほうらん)の祖師像と共に祭られ(2007年・彩色も復元)、小槌と担いだ袋が無ければ大黒天とは判らぬほど表情は厳しい。
 何故、直興は、三成と左近の遺した百間橋の廃材で1万躰に及ぶ大黒天を祭る必要があったのか……。
推測だが、彦根藩が当地を治めてきた石田三成の遺徳を脅威に感じていたことは確からしい。 直興としては、三成に注がれていた領民の信頼を井伊家に向ける必要があった。 領民の三成への思慕を消すことができないのならば、大黒天の姿を仮り新しい時代の到来を示そうとしたのではないだろうか。


大黒天はヒンドゥー教の最高神シヴァが日本化姿である。シヴァの別名は「マハーカーラ」。「マハー」は大きな、「カーラ」は闇・黒という意味だ。後に、「大国主命」と音の読みがつながる事から習合され、一般的な現在大黒天の姿になった。
 破壊と創造の神、そう考えると、大洞弁財天堂の建立と百間橋改修が同時期なのも肯ける。甲冑大黒天は、破壊し新しい秩序と安寧を直興は約束する直興の決心を映した姿なのではないだろうか。
 ところで、この1万躰の大黒天は創建以来300年、経年による傷みで欠損するほか、願をかけ自宅へ持ち帰り満願成就すれば、新しい大黒様と共にお返しするという習慣があり、その数が減っている。大洞弁財天では、創建時の姿に戻すため「壱万体大黒天再興」を発願し、大黒天像の奉納を呼びかけている。

 

清凉寺の七不思議

 清凉寺は、初代藩主の井伊直政公が関ヶ原の戦いの傷が元で亡くなった時(慶長七年・1602)にこの地を墓所とし、直政公を開基とする井伊家代々の菩提寺となった。山号は「祥壽山」。直政公の戒名「祥壽院殿清凉泰安大居士」による。
 井伊直弼公は信仰心の篤い父直中の影響をうけ、幼少期から仏道に関心をもち、清凉寺で禅の修養を始めたのは13歳。21世道鳴、22世師虔、23世仙英、歴代の和尚に学び修禅に励んだといわれている。参禅道場には、直弼公が使っていた座禅を組むための椅子が遺されている。
 清凉寺の境内地は佐和山城時代に石田三成の奥方及び家老・島左近の屋敷があった場所とされている。
 さて、清凉寺には七不思議が伝わっている。


「唸る門」
大晦日の晩に唸る門。この門が佐和山城のいずれかの城門であったと言われる山門である。
 「晒しの井戸」
清涼寺の墓地にある井戸は島左近が茶の湯に使っていたもので、この水に汚れ物を晒しておくと一夜で真っ白になった。
 「血の池」
墓域の一角にあった池は佐和山城陥落の際に生首を洗った場所で、以来、赤く染まり、時に水面に女の顔が映った(現在は埋められ墓地となっている)。
 「木娘」
本堂前にある巨大なタブの木は樹齢700年以上で、夜な夜な女に化けて参詣者を驚かせた。
 「黒雲の怪」
江戸時代、彦根城で武具の虫干しをしていると、きまって佐和山から黒雲が走り雨を降らせた。
 「ひとり鳴る太鼓」
不吉なことがあると本堂の太鼓がひとりでに鳴った。
 「小姓の出現」
書院の手洗石は石田三成時代からのもので、暗やみの中から小姓が出てきて水を汲んでくれる。
 いずれも、佐和山城に関する話題が集められている。
 「晒しの井戸」は、裏手の墓所へ行く途中にあり今は石の蓋が被せられ、コンクリートで固められた現代風の姿で清涼寺の庭を見下ろしている。
 「木娘」のタブの木は、今も本堂前の境内で茂っている。25種類以上の宿り木やシダ類などが寄り添い樹齢700年以上、島左近が屋敷を構えていた頃から今も在り続けている。
 「ひとり鳴る太鼓」は本堂右側にあり、小姓が現れるという手洗石は書院の庭にあり、これら全ては、石田三成や島左近が目にしていたものと同じである。
 また、清凉寺の山門もまた佐和山城のいずれかの城門であったと伝わっている。

 

一圓屋敷・多賀「里の駅」



一圓家は江戸時代の庄屋で、屋敷は安政4年(1857)に建てられたとされ、平成20年に所有者の一圓六郎氏よりNPO法人彦根景観フォーラムに譲渡された。現在は同団体と、地元住民らで組織の多賀クラブとが結成した団体「多賀『里の駅』」が地元の町おこしの拠点として活用している。敷地1,678㎡、建物面積が約560㎡。3つの蔵がある。


「目に見えないモノを見ることができるかもしれない旅」のメインイベントの食談。大嶋義実(京都市立芸術大学)教授の「「笛と龍と異界」のお話を聞く。
現世(うつしよ)と幽世(かくりよ)の狭間、Don't think ..... Just FEEL IT!






LinkIcon一圓家年表
LinkIcon多賀「里の駅」の4年間


 

一圓家年表

寛文 1661年 初代 高重 江戸時代はじめに初代(1672年没)
    2代 高義 杢太夫(もくだゆう)を世襲(1705年没)
正徳 1711年 3代 高次(友之助)(1758年没)
宝暦
1751年

4代 秀綱(弥惣八)(1795年没)

寛政 1789年 5代 秀経 (杢太夫)(1793年没)
享和 1801年 6代 秀成 (弥惣八)(1808年没)
文化 1804年 7代 秀房 (杢太夫)「庄屋」の初見(1829年没)
天保 1830年

8代 有秀 (杢太夫)「庄屋」の初見(1881年没)
安政4年1月、現在の場所で屋敷の普請開始。5月11日、井伊直弼の領内巡見。 

明治 1868年 9代 秀延 (弥太郎)(1891年没)
 

10代 秀褒 (杢太夫)
明治14年生、26才で郡会議員。その後、大正期まで行政委員を歴任。 醒井村より国会議員であった江龍清雄(えりゅうすがお)の二女が嫁入り。明治政府の重鎮であった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)との交流。東久世は一圓屋敷1階次の間に掲げられた扁額「対山軒」の筆者。明治24年、屋敷は茅葺きから瓦葺きへ。2階の増築。明治34年~40年頃、日本画家の内海吉堂(うつみきちどう)が滞在し、衝立や戸棚などに絵を描く。

昭和 1926年 11代 菊太郎 
    12代 六郎 現当主 

※一圓家譜面・滋賀大学経済学部附属史料館「一圓六郎家文書」約650点より、母利美和(京都女子大学教授)が調査。
※屋敷の普請についは、濱崎一志(滋賀県立大学教授)が調査。
※屋敷の絵画については、上野良信(滋賀県立琵琶湖文化館学芸員)が調査。
※名前は私的な名のり。(  )は公式な通称。




 

多賀「里の駅」の4年間

所有: NPO法人彦根景観フォーラム
運営: 多賀クラブ

平成19年 2007年 3月15日 12代一圓六郎氏より敷地・屋敷寄付の申し出

 

6月30日

NPO法人彦根景観フォーラム総会で受け入れの決定
平成20年 2008年 8月~3月

200年住宅助成事業(国土交通省)に採択


 

9月1日

多賀クラブ(多賀を元気にする有志の会)設立

  9月11日 所有権移転完了(一圓千鶴・淑両氏からNPO法人彦根景観フォーラムへ) 

  9月28日 第1回シンポジウム「多賀里の駅の目指すもの」

  11月1日 《野菜市&集い》開始(第1回)

  11月1日,12月6日,12月29日 実測調査(滋賀県立大学濱崎研究室)
    12月6日 《野菜市&集い》(第2回)
    12月25日~27日 古文書調査(京都女子大学母利研究室)
平成21年 2009年 1月7日 実測調査(滋賀県立大学濱崎研究室)
    1月10日~12月5日 《野菜市&集い》第3回~第14回(毎月第1土曜日に開催)
    5月20日 そば打ち体験(以後毎月20日に開催。農繁期は休み)
    7月~3月 地方の元気再生事業(国土交通省)に採択
    9月2日~9月4日 調度品調査(滋賀県立大学市川研究室、亀井研究室)
    9月5日 絵画調査(滋賀県立琵琶湖文化館)、美術工芸調査(滋賀県文化財保護課)
    9月4日~9月19日 建物調査(滋賀県立大学濱崎研究室)
    9月18日~10月5日 絵葉書調査(滋賀県立細馬研究室)
    10月3日 《野菜市&集い》第12回(滋賀大学山崎研究室)
平成22年 2010年 1月9日~12月4日 《野菜市&集い》第15回~第26回(毎月第1土曜日に開催)
    1月20日 そば打ち体験(以後毎月20日に開催。農繁期は休み)
    10月.31日~11月3日 湖東自立圏地域創造事業に採択。「一圓屋敷の屏風たち」企画展示
農家レストランプチOPEN
平成23年 2011年 1月8日~10月1日 《野菜市&集い》第27回~第36回(毎月第1土曜日に開催)
    1月20日 そば打ち体験(以後7月20日まで毎月20日開催。農繁期は休み)
    3月26日 MOHの会(安心安全な食を考える会)主催事業に屋敷と料理の提供
    7月16日 NPO法人彦根景観フォーラム総会で多賀町への寄付決定
    10月29日、30日、11月3日
湖東自立圏地域創造事業に採択。「古の道具展」企画展示和・カフェ(蕎麦ランチ、和スイーツ)

《集い》に出演して頂いた方々
(出演当時の役職)濱崎一志さん(滋賀県立大学教授)/(株)ふるさと総研の玉田さんとみなさん / 森小夜子さん(多賀植物観察の会)/加藤武さん(東びわこ農業共同組合多賀営農センター)/澤田典子さん(澤田製麩所)/滝喜代子さん(もと多賀小学校栄養士・学校給食担当)/山崎一眞さん(滋賀大学産業共同研究センター教授)/高橋進さん(ダイニックアストロパーク天究館館長)/ 細馬宏通さん(滋賀県立大学教授)/ 番場ふるさと味の会のみなさん/市川秀之さん(滋賀県立大学准教授)/ 滋賀雅楽会のみなさん /島野喜道さん(滋賀YMCA)/栗本泉さん(K農園・多賀クラブ)/ 山本豪一さん(和泉流狂言師 )/ 山本明美さん(多賀町商工会女性部長)/松宮忠夫さん(多賀町教育委員会教育長)/母利美和さん(京都女子大学教授)/一円重紀さん(手づくり紙芝居「ぴょんた」会員)/エコーメモリアル・チェンバーオーケストラのみなさん /中川信子さん(多賀植物観察の会代表・多賀クラブ)/ 小早川隆さん(多賀町立博物館館長)/宮戸有子さん(多賀在住のピアノ講師)/ 平松光三さん(彦根自然観察の会会長)/亀井若菜さん(滋賀県立大学准教授)/ 羽原仁志さん(妖怪研究家)