沖島・西福寺(近江八幡市)

沖島

琵琶湖最大の島が沖島。淡水湖の島に住民が永住しているのは世界的に極めて珍しく、日本では沖島だけ。近江八幡市の沖合い約2㎞にあり、定期船が通っている。大部分は漁師とその家族で、堅田と共に、琵琶湖を代表する漁村を形成している。
歴史は古く、「おいつしま 守りの神やいますらん 波もさわがぬわらわえの浦」と紫式部は詠み、「沖島の祖人」といわれるのは源氏の落ち武者。島の祖となったといわれている。

西福寺
西福寺は、文明年間(1469年〜1486年)の初めに蓮如上人に帰依した茶谷重右衛門が得度を許され、「釈西了(しゃくさいりょう)」の法名をいただき、島の北東に庵を建てたことに始まる。宗派は「浄土真宗本願寺派」。現在の本堂は、天保13年(1843)に建立され、今に至っている。

幽霊を救うた六字名号(みょうごう)
 今から四百年ほどの昔、戦国時代と呼ばれていた頃。沖島に茶谷重右衛門という一人の漁師が住んでおりました。島の暮らしはきびしい毎日ですが、夫婦ともども精一杯に働いて幸せな日々を送り、可愛い赤ん坊も産まれた家庭でした。
 ところが、ふとした風邪がもとで重右衛門の若いお嫁さんは、だんだんと病気が重くなり、とうとう可愛いわが子に心を残しながら息を引き取ってしまいました。どれだけ心残りだったでしょうか。
 乳飲子を残された重右衛門は、貰い乳をしながら一生懸命に育てはじめました。
 そんな頃です。夜ごと夜ごと残した子を慕うて妻の幽霊が現れるのです。
「可哀そうに子に未練が残って迷うているのか。大丈夫、この子はどんなことがあってもわしが育てるから、迷わず成仏してくれ」
と妻が迷い出るたびに夫として諭すのですが、わが子恋しさの幽霊はそれからも毎夜毎夜出てくるのでした。
 そんなある日、湖が大変荒れました。
 北陸路へ念仏の布教におもむいておられた本願寺の門主蓮如上人が、北陸からの帰途を舟で堅田へ帰ろうとしておられたのですが、あまりの波の荒さに沖島へ舟を寄せて風のおさまるのを待つために立ち寄られました。
 偉い偉いお坊様だと聞いた重右衛門は、この上は上人様にお縋りして、妻の霊を極楽浄土へお導きいただこうと、残された子のことや毎夜に迷い出る妻の幽霊のことなどの一部始終を蓮如上人に申し上げました。
 話を聞いた上人は、その哀れさに涙を拭いながらお経を唱え、南無阿弥陀仏の六字の名号をむしろの上にひろげられた紙に大きく書き、この六字名号を部屋に掛けて日々拝するようにと申されました。そしてなお、阿弥陀如来の尊いお救いのこころを、淳々と重右衛門をはじめ居合わせた島人にお説きになったのです。
 名号の尊い功徳のあらわれか、その夜を限りに妻の幽霊は姿を見せることはありませんでした。このことがあって重右衛門は深く蓮如上人に帰依をすることになり、粗末ながらも自分の家を真宗の道場とし、自分は出家をして仏の道を歩むことになりました。
………
 この茶谷重右衛門が開いた寺が沖島の西福寺であり、幽霊を救うた六字名号が寺宝としてこの寺に今も伝わります。(出典『近江の昔もりがたり』瀬川欣一著/サンライズ出版)


左・『絹本著色蓮如幽霊済度名号染筆図』(西福寺所蔵)
右・『虎斑蓮如筆六字名号』(西福寺所蔵)

■『絹本著色蓮如幽霊済度名号染筆図』は、西福寺の伝承をもとに作成されたもの。この図の由来書(明治12年作成)が額装にて残されている。
■『虎斑蓮如筆六字名号』は、『幽霊済度の名号』とも呼ばれ、蓮如上人が夜な夜な現れる幽霊にこの名号を渡し成仏させたという伝承がある。

 

宗安寺(彦根市)


夢京橋キャッスルロードにある宗安寺は、井伊直政公の正室東梅院が両親の菩提をとむらうために開いた寺院で、群馬県箕輪にあり安国寺と称していた。慶長三年(1598)直政公が高崎城主になると安国寺は高崎(現高崎市)に、そして慶長五年(1600)関ケ原の戦いの勲功で石田三成公の近江佐和山城を拝領すると安国寺も佐和山麓に移され、西軍毛利方の将安国寺恵瓊の避けて「宗安寺」と改められた。更に、慶長八年(1603)宗安寺は彦根城築城に際して、現在の地に移築された。表門は赤門と呼ばれ、佐和山城表門を移築したものと伝えられている。

幽霊の絵

宗安寺所蔵


「幽霊の絵」と呼ばれているが、これは近代の女流画家である上村松園が描いた「焔」という絵を模写したもの。怪談的な曰くがあるわけではない。モチーフとなっているのは、古典文学の『源氏物語』に登場する六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)。いわゆる「うらめしや〜」と語られる幽霊とは異なる雰囲気である。
六条御息所は『源氏物語』の主人公・光源氏の恋人として登場する。光源氏を強く想うあまりに生霊と化し、光源氏の正妻だった葵上をとり殺してしまう。後の芸能文化に強く影響を残した。上村松園はそのシーンを謡曲にした「葵上」から着想し、大正7年(1918)に元の絵を描いたという。それを、誰が、いつ、模写し、どういう経緯で宗安寺の檀家に至ったのかは判っていない。






 

徳源院(米原市)

清瀧寺徳源院

鎌倉中期に近江を領していた佐々木氏が、六角氏、京極氏、高島氏、大原氏に分かれ本家に当たる六角氏は、信長に滅ぼされたが、京極氏は、江戸時代も大名家としてつづいた。霊通山清瀧寺徳源院は、この京極氏の菩提寺である。
 寺は、京極家初代氏信の草創(1283)で寺号も氏信の法号の清瀧寺殿から称したものである。京極氏も戦国時代の荒波にもまれ、第18代高吉の時代にはその勢力を大きく失うが、第19代高次が関ヶ原の戦いの功績でその勢いを盛り返し以後いくつかの転封があるが最終的に四国丸亀藩として明治維新まで続くことになる。

その意味でこの寺は第19代高次を京極氏中興の祖と位置づけ高次公を中心に祀ってある。寛文12年(1672)、第22代高豊は領地の一部とこの地を交換して寺の復興をはかり、三重の塔(県指定文化財)を建立し、院号も第21代高和(丸亀藩初代)の院号から徳源院と改称した。このとき、近隣に散在していた歴代の宝篋印塔をここに集め、順序を正して整備したものが、現在に伝えられている京極家の墓所(国指定史跡)である。また、裏の池泉回遊式庭園(県指定名勝)はこの時整備されなおしたもので、江戸時代初期の典型的な作風で清滝山を借景に四季折々の変化を楽しめる。遠州作の伝もあるが、資料としては残っていない。
徳源院ホームページ


清水節堂「幽霊図」

清水節堂は浅井郡大路(おち)村(長浜市大路町)出身で、明治末年から昭和 20 年代まで、山水画から人物画、それに仏画など多彩な絵を残した。節堂は坂田郡山階村(長浜山階町)の画家・中川耕斎に師事した後、明治 30 年には東京美術学校絵画科に入学、橋本雅邦らについて本格的な画技を習得。明治 22 年に帰郷し、昭和 26 年に 76 歳で没た。その画風は、伝統的な日本画の手法に基づきながら、洋画的手法を取り入れたもので、大胆かつ精巧な画面構成が特徴。
節堂の代表作である「絹本淡彩 幽霊図」は、幽霊が掛軸から抜け出る状態を描き、上半身は完全に抜け出るが、下半身は抜け出る途中で、幽霊の背景に表具が見えている。また、風帯も風でなびいている。これらの描写は、表具自体も絵として描かれた「描表装(かきびょうそう)」の手法によって可能となったもので、伝統的な日本画に西洋の遠近法の技法を取り入れた、近代ならではの作品である。幽霊画の傑作と評価されている。
(参考:特別陳列『湖北近代の画家・清水節堂 秀作展』広報資料/長浜市長浜城歴史博物館)


 

一圓屋敷・多賀「里の駅」

一圓家は江戸時代の庄屋で、屋敷は安政4年(1857)に建てられたとされ、平成20年に所有者の一圓六郎氏よりNPO法人彦根景観フォーラムに譲渡された。現在は同団体と、地元住民らで組織の多賀クラブとが結成した団体「多賀『里の駅』」が地元の町おこしの拠点として活用している。敷地1,678㎡、建物面積が約560㎡。3つの蔵がある。


LinkIcon一圓家年表
LinkIcon多賀「里の駅」の4年間


 

一圓家年表

寛文 1661年頃 初代 高重 江戸時代はじめに初代(1672年没)
    2代 高義 杢太夫(もくだゆう)を世襲(1705年没)
正徳 1711年頃 3代 高次(友之助)(1758年没)
宝暦
1751年頃

4代 秀綱(弥惣八)(1795年没)

寛政 1789年頃 5代 秀経 (杢太夫)(1793年没)
享和 1801年頃 6代 秀成 (弥惣八)(1808年没)
文化 1804年頃 7代 秀房 (杢太夫)「庄屋」の初見(1829年没)
天保 1830年頃

8代 有秀 (杢太夫)「庄屋」の初見(1881年没)
安政4年1月、現在の場所で屋敷の普請開始。5月11日、井伊直弼の領内巡見。 

明治 1868年頃 9代 秀延 (弥太郎)(1891年没)
 

10代 秀褒 (杢太夫)
明治14年生、26才で郡会議員。その後、大正期まで行政委員を歴任。 醒井村より国会議員であった江龍清雄(えりゅうすがお)の二女が嫁入り。明治政府の重鎮であった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)との交流。東久世は一圓屋敷1階次の間に掲げられた扁額「対山軒」の筆者。明治24年、屋敷は茅葺きから瓦葺きへ。2階の増築。明治34年~40年頃、日本画家の内海吉堂(うつみきちどう)が滞在し、衝立や戸棚などに絵を描く。

昭和 1926年頃 11代 菊太郎 
    12代 六郎 現当主 

※一圓家譜面・滋賀大学経済学部附属史料館「一圓六郎家文書」約650点より、母利美和(京都女子大学教授)が調査。
※屋敷の普請についは、濱崎一志(滋賀県立大学教授)が調査。
※屋敷の絵画については、上野良信(滋賀県立琵琶湖文化館学芸員)が調査。
※名前は私的な名のり。(  )は公式な通称。




 

多賀「里の駅」の4年間

所有: NPO法人彦根景観フォーラム
運営: 多賀クラブ

平成19年 2007年 3月15日 12代一圓六郎氏より敷地・屋敷寄付の申し出

 

6月30日

NPO法人彦根景観フォーラム総会で受け入れの決定
平成20年 2008年 8月~3月

200年住宅助成事業(国土交通省)に採択


 

9月1日

多賀クラブ(多賀を元気にする有志の会)設立

  9月11日 所有権移転完了(一圓千鶴・淑両氏からNPO法人彦根景観フォーラムへ) 

  9月28日 第1回シンポジウム「多賀里の駅の目指すもの」

  11月1日 《野菜市&集い》開始(第1回)

  11月1日,12月6日,12月29日 実測調査(滋賀県立大学濱崎研究室)
    12月6日 《野菜市&集い》(第2回)
    12月25日~27日 古文書調査(京都女子大学母利研究室)
平成21年 2009年 1月7日 実測調査(滋賀県立大学濱崎研究室)
    1月10日~12月5日 《野菜市&集い》第3回~第14回(毎月第1土曜日に開催)
    5月20日 そば打ち体験(以後毎月20日に開催。農繁期は休み)
    7月~3月 地方の元気再生事業(国土交通省)に採択
    9月2日~9月4日 調度品調査(滋賀県立大学市川研究室、亀井研究室)
    9月5日 絵画調査(滋賀県立琵琶湖文化館)、美術工芸調査(滋賀県文化財保護課)
    9月4日~9月19日 建物調査(滋賀県立大学濱崎研究室)
    9月18日~10月5日 絵葉書調査(滋賀県立細馬研究室)
    10月3日 《野菜市&集い》第12回(滋賀大学山崎研究室)
平成22年 2010年 1月9日~12月4日 《野菜市&集い》第15回~第26回(毎月第1土曜日に開催)
    1月20日 そば打ち体験(以後毎月20日に開催。農繁期は休み)
    10月.31日~11月3日 湖東自立圏地域創造事業に採択。「一圓屋敷の屏風たち」企画展示
農家レストランプチOPEN
平成23年 2011年 1月8日~10月1日 《野菜市&集い》第27回~第36回(毎月第1土曜日に開催)
    1月20日 そば打ち体験(以後7月20日まで毎月20日開催。農繁期は休み)
    3月26日 MOHの会(安心安全な食を考える会)主催事業に屋敷と料理の提供
    7月16日 NPO法人彦根景観フォーラム総会で多賀町への寄付決定
    10月29日、30日、11月3日
湖東自立圏地域創造事業に採択。「古の道具展」企画展示和・カフェ(蕎麦ランチ、和スイーツ)

《集い》に出演して頂いた方々
(出演当時の役職)濱崎一志さん(滋賀県立大学教授)/(株)ふるさと総研の玉田さんとみなさん / 森小夜子さん(多賀植物観察の会)/加藤武さん(東びわこ農業共同組合多賀営農センター)/澤田典子さん(澤田製麩所)/滝喜代子さん(もと多賀小学校栄養士・学校給食担当)/山崎一眞さん(滋賀大学産業共同研究センター教授)/高橋進さん(ダイニックアストロパーク天究館館長)/ 細馬宏通さん(滋賀県立大学教授)/ 番場ふるさと味の会のみなさん/市川秀之さん(滋賀県立大学准教授)/ 滋賀雅楽会のみなさん /島野喜道さん(滋賀YMCA)/栗本泉さん(K農園・多賀クラブ)/ 山本豪一さん(和泉流狂言師 )/ 山本明美さん(多賀町商工会女性部長)/松宮忠夫さん(多賀町教育委員会教育長)/母利美和さん(京都女子大学教授)/一円重紀さん(手づくり紙芝居「ぴょんた」会員)/エコーメモリアル・チェンバーオーケストラのみなさん /中川信子さん(多賀植物観察の会代表・多賀クラブ)/ 小早川隆さん(多賀町立博物館館長)/宮戸有子さん(多賀在住のピアノ講師)/ 平松光三さん(彦根自然観察の会会長)/亀井若菜さん(滋賀県立大学准教授)/ 羽原仁志さん(妖怪研究家)


過去のツアー