余呉湖  


面積約1.8平方キロメートル・周囲約6.4km、水深13m、三方を山で囲まれた湖。琵琶湖との水面落差約50m。「天女の羽衣」や「龍神・菊石姫」の伝説が残る神秘の湖だ。別名を「鏡湖」ともいう。
 水上勉著『湖の琴(うみのこと)』は、大正から昭和にかけての余呉湖の周辺を舞台に、若狭から琴糸を作りに来た男女の悲恋が描かれている。
 「秋ふかい一日の夕刻、この山蔭の石近くに降りたって、かげろう淵の深々とした水面を見つめていると、湖底の遠くから、琴の音がひびいてくる。(中略)私(作者)はただ晩秋の夕暮れ時に、余呉の湖畔に立ち給えというしかない。」という文章が印象的だ。


今回のツアーは、余呉湖の天女伝説から、天女の息子菅原道真が子どもの頃に修行した菅山寺を訪れ、更に、天女の子孫に会う旅をする…。

「龍神・菊石姫」の伝説
余呉湖より二丁余り西、桐畑口というところに桐畑太夫という都からの落人が住んでいた。弘仁二年の春の終わり、太夫最愛の一人の女の子が生まれ、菊石姫と名付けられた。娘が、7、8歳になると次第に蛇体の姿となったので、家に置いておくものではないと、屋敷から一丁余り東北の屋賀原というところに仮家を建て、捨て置いた。
食物も与えられなかったので、菊石姫のお守係の下女が憐み、自分の食物を与えて養育していた。


18歳になると菊石姫は、ここにもいられないと、ついに湖水に入る決意をし、そのとき、片目を引き抜き、「龍の目玉は宝や金では求め難いもの。大切にしなさい。」と長く養育してもらったお礼として下女に与えた。形見の品として大切にしていた目玉だったが、病を治すのによく効き、その他にもいろいろ不思議なことがあった。
このことが上の人の耳に達し、差し出すように命じられ、下女は仕方がなく差し出したが、龍の目は両眼とも持参せよとのご上意があった。


耐えられなくなった下女は、湖の西、新羅の森から「菊石姫、菊石姫」と呼ぶと、にわかに湖水が波立ち、菊石姫が現れた。
下女は「両眼を差し出せねば、火責め水責めにあう。」と訴え、菊石姫は「養育の恩は深い。自分は両目を失っても命の別状ない。しかし、盲目となったら時刻を知ることはできないから、湖水の四方にお堂を建て、時を知らせる鐘をついてくれと、太夫に伝えてください。」といって目玉を抜き、石に投げつけた。目玉の痕が石に鮮やかにつき、この石を名付けて「目玉石」という。


桐畑太夫は、余呉の天女伝説にもその名が残っている。(参考 余呉観光情報)





余呉に伝わる羽衣伝説



伊香刀美『帝王編年記』


余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水遊びをした。 それを見た伊香刀美は天女に恋心を抱き、白い犬に羽衣を一つ、盗み取らせた。
天女は異変に気づいて天に飛び去ったが、最後の若い天女の一人は、羽衣がないため飛び立てない。 地上の人間となった天女は、伊香刀美の妻となり、4人の子供を産んだ。
兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志刀美(なしとみ)、姉娘は伊是理比咩(いざりひめ)、妹娘は奈是理比咩(なぜりひめ)。 これが伊香連の(伊香郡を開拓した豪族)の先祖である。
のちに天女である母は、羽衣を見つけて身にまとい、天に昇った。 余呉観光情報より


伊香具神社
御祭神は伊香津臣命。延喜式内社であり、当地の租神を祀っている。伊香津臣命は『帝王編年記』の羽衣伝説に登場する与胡郷の人、伊香刀美に同一視されている。
神社の鳥居は「伊香式鳥居」という奈良の三輪式鳥居と安芸の厳島式鳥居が組み合わさった様式をで建てられている。かつて神社のすぐ前が伊香小江と云う入江であり後方の山が伊香山とよばれた神奈備であったので、湖の神と山の神にあわせ捧げる意味でこの鳥居が作られたという。


ツアーでは、天女から続く家系図を拝観させていただき、片山旭星氏 琵琶奉納する。





道真誕生伝説『日本地誌大系』
昔、湖辺の村・川並に桐畑太夫という漁師がいた。 あるとき、芳しい香りにひかれるまま、一本の柳に歩み寄ると、色鮮やかなうすものが掛かっている。
うすものを取った太夫が振り返ると、美女がいて
「私は天国の者。余呉の湖の美景に憧れて年に一度、水浴びをしています。どうか羽衣を返してください。」と懇願した。 が、太夫は羽衣を隠して返さなかった。 美女は天に帰ることを諦めて、太夫の妻になった。


天女は天上界のことばかり思って、涙のうちに暮していたが、やがて、玉のような男の子を産んだ。
ある日、「おまえの母は天女様 お星の国の天女様 おまえの母の羽衣は 千束千把の藁の下」
と子守が歌うのを聞いた。裏庭の藁の下を探すと、案の定、羽衣があった。
天女は大いに喜んで羽衣をまとい、天上遠く飛び去っていった。
菅山寺の僧・尊元阿闍梨は、この話を聞き、母のないおさなごを憐れんで、 寺に連れ帰って養育した。この子どもはのちに、菅原是善卿の養子となった。 すなわち菅原道真である。


菅原道真十一歳ノ像

菅山寺の天満宮は、坂口のから約50分の山中にあり現在は無住となっている。このため現在では参道入口の近くに里坊弘善館で。菅原道真の十一歳ノ像、本地佛の十一面観音像(平安時代)など菅公ゆかりの品や菅山寺宝物資料を展示している。



弘善館





清凉寺  


清凉寺は、初代藩主の井伊直政公が関ヶ原の戦いの傷が元で亡くなった時(慶長七年・1602)にこの地を墓所とし、直政公を開基とする井伊家代々の菩提寺となった。山号は「祥壽山」。直政公の戒名「祥壽院殿清凉泰安大居士」による。
井伊直弼公は信仰心の篤い父直中の影響をうけ、幼少期から仏道に関心をもち、清凉寺で禅の修養を始めたのは13歳。21世道鳴、22世師虔、23世仙英、歴代の和尚に学び修禅に励んだといわれている。参禅道場には、直弼公が使っていた座禅を組むための椅子が遺されている。
清凉寺の境内地は佐和山城時代に石田三成の奥方及び家老・島左近の屋敷があった場所とされている。


境内には、樹齢400年の梅の木があり、彦根で一番遅く咲くと言われている。

ツアーでは、朝、坐禅をした後、小泉凡氏の講演を聞く。そして清凉寺の観梅の後、精進料理をいただく。


 
 




 

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